戦国武将・武者人形の戦国堂
埼玉県越谷市在住の私(店主)ですが、なにげなく市のホームページを見ていたら地元の名所・史跡旧跡のページに「武田勝頼の遺児・千徳丸の墓」というのを発見しました。正式には「千徳丸供養塔」といい、市の指定文化財になっています。なんでこんな所に、と不思議に思いさっそく墓のある市内の照蓮院に行ってきました。

2010年10月25日
「武田家滅亡と武田勝頼A -子孫の足跡-」
照蓮院
 2009年秋の信州旅行以来一年余りに渡って、武田家の滅亡と武田勝頼の人物像に興味を抱きいろいろ調べたりしています。そんな折、最近たまたま見ていた地元・越谷市役所のホームページに照蓮院の「越谷市指定文化財・千徳丸供養塔」というのを発見しました。



 ホームページの説明文には、
瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
 なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。
とあります。

 武田家滅亡に際して、武田勝頼の遺児が落ちのびた伝承は、実は山梨県にもあり、「芍薬塚」として残っています。幼児であった点、家臣に伴われて落ちのび匿われていた点、早世してしまった点が共通していますが、織田信長軍の追及を逃れた遺児が2人いたのか、それとも同一人物なのか、今となっては真相は知る由もありません。

 いずれにせよ、武田家旧領の山梨県や長野県に行かなくても、思いもかけない身近な所に足跡が残っていたのか、と驚き、さっそく供養塔のある市内の照蓮院(埼玉県越谷市瓦曽根1−5−43)に行ってきました。

 照蓮院は越谷市役所にほど近く国道4号線(旧道)に面しているため、わかりやすい立地です。本堂の前に大きな掲示があり、千徳丸供養塔についての解説が書かれています。…が、広い境内を見渡してもそれらしいものが見当たりません。「もしや!」と思い、掲示板に書かれているように秋山家の墓所を探したら、やっとありました。秋山家と書かれた墓所の敷地のなかに並び佇む五輪塔の中でも、赤子のように一番小さなものです。越谷市の石板がなければ見落としてしまいそうなくらい目立ちません。

 今春に訪れた山形県米沢市にある、上杉家御廟所(上杉家歴代藩主の墓)や直江兼続夫妻の墓のような立派なものを想像していたので、ちょっと拍子抜けした感じです。名門の生まれといえども、落ちのびてひっそりと隠れ住むうちに幼くして亡くなった遺児の墓ですから、こんなものなんでしょう。菩提を弔うことになった家臣(秋山伯耆守信藤)の子孫にしても、大きく目立つ立派な墓石を造り大っぴらにできなかった事情もあったのでしょうし…。いろいろ考えさせられる史跡です。

 武田家滅亡の混乱の中で、家臣に連れられ幼い子供が逃避行を続け、郷里から離れた地にひっそりと隠れ住む様に思いを巡らしながら、静かに冥福をお祈りしてきました。

武翔








秋山家墓所



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