戦国武将・武者人形の戦国堂
前回、西方・実相寺の藤田信吉の墓を訪れた際に、墓石の脇にある案内板に、信吉と徳川家康との出会いを物語る箇所があり、気になって調べてみました。

2011年1月18日
「歴史に埋もれてしまった悲運の武将 藤田信吉の足跡5 芸州・宮島編」
西方藩主 藤田能登守重信(信吉)公 墓所

案内板 藤田能登守重信(信吉)公は、会津の上杉景勝の功臣であった。豊臣秀吉の没後、豊家五大老の一人の上杉景勝は、徳川家康と対抗して戦いを起こそうとしていた。
 重信公は景勝を諌めたが、他の重臣に討たれそうになったので、京都大徳寺に入り剃髪し蟄居した。
 家康は、文禄元年征明の役の時に、重信公によって急場を救われたことに報いようと仕官を勧める。
 家康は会津討伐のため、慶長五年七月二十四日に下野国小山に着陣する。そしてその日に、予期どうりの石田三成挙兵の報せを受け、良く二十五日に有名な小山軍議を開くのである。
 重信公は、上杉景勝の急乱を諌めようとしての努力の功績大なりとして、外様ながら早くから徳川氏と近い関係にあったということで、譜代大名の多かったこの時期の下野国に割り込む形で、新知一万五千石(うち妻化粧田二千石)の大名に封じられ、慶長八年から元和ニ年(1603年〜1616年)の十四年間、西方藩主として治世したのである。その間にも数々の合戦で家康から馬衣三十等を賜っている。
 しかし、元和元年大坂の陣(1615年)に榊原康勝が若年のためにその軍指揮の失敗を咎められてしまう。-(判読不明)- 信濃に配流の恥辱をそそぐことも叶わず自刃したという。享年五十五歳(諸説あり)元和二年七月十四日 法名一叟源心居士。
 五輪塔、火輪にやや反りがあり、四隅を斜線で切る。墓全体縦長の感じで、室町末期の五輪塔の名残を留めており、近世期の建立と思われる。

出典「大日本人名事典(講談社)
西方町教育委員会
藤田信吉墓石脇の案内板

 実相寺の藤田信吉の墓石の脇にある上記案内板に、「(略)- 家康は、文禄元年征明の役の時に、重信公によって急場を救われたこと -(略)」という件(くだり)があります。信吉と家康の縁を辿り、後の信吉の上杉家出奔に繋がる重要な出来事であると思い気になって、「管窺武鑑」で調べてみました。

 「管窺武鑑」下之中、第八巻に「秀吉公、高麗御陣、景勝出勢渡航の事」という章があります。この中に、該当するエピソードが記されていました。その概要は次の通りです。

芸州・宮島
藤田信吉  朝鮮出兵に当たり、集結地の肥前名護屋に向かっていた景勝率いる上杉軍が、その日の宿泊予定地である安芸の国・宮島にさしかかった際、徳川軍と鉢合わせになり、宿泊場所を巡って一悶着起こっています。当時は、遠征軍の途中の宿泊場所を確保するために陣場(陣割とも)奉行一行が先行し、本隊の宿を手配する習わしでしたが、一行の不手際で、後から来た徳川軍の陣割衆に良い宿を押さえられてしまいました。割り込みに怒った上杉方と一歩も譲れない徳川方との間で口論となり一触即発の危険な状況となる中、常に軍の先鋒を担っていた藤田信吉が到着、事態の収拾にあたります。
 どちらの言い分をそのまま採用しても一方がおさまらないのは明らかで、その場を上手く治めるために信吉は、「戦場に赴くのに、後ろに引くのは不吉だが、前に進むのは吉事である」と味方の陣割衆を説得し自軍の次の宿場への移動を提案、すぐに後続の景勝にも連絡し承認を得て事なきを得ています。この辺の迅速な問題処理の巧みさは、信吉の吏僚としての優秀さも窺わせます。

徳川家康 上杉軍・徳川軍双方が肥前・名護屋に無事着陣した後、この事件の顛末を聞いた家康は、信吉の機転を褒め、「貴殿のおかげで当方も面子を失わずに済みました」、と伝える使者を信吉のもとへ送り謝意を表しています。

 戦(いくさ)働きだけでなく、平時においても冷静で機転のきく信吉と、律義で人の気をそらさぬ細やかなフォロー(気遣い)で人望を集める家康両人の人柄が窺える興味深いエピソードです。

 こんな事件をきっかけに、信吉は次第に家康の器量に惹かれていったのでしょうか?

(続く)

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