戦国武将・武者人形の戦国堂
藤田信吉は、関ヶ原の合戦の後、徳川家康によって、下野国・西方藩1万5千石の大名に封じられています。信吉の墓がある西方町の実相寺を訪れました。

2011年1月17日
「歴史に埋もれてしまった悲運の武将 藤田信吉の足跡4 西方・実相寺編」

 藤田信吉の墓がある「実相寺」は、藩主となった信吉が治めた旧西方藩領内にあり(栃木県上都賀郡西方町大字元1739)、山門から本堂に至るまで随所に歴史の重みが感じられる曹洞宗の古刹です。

 一面の田園地帯に接する小山を切り拓いて墓所が作られており、境内の山門、本堂、墓所の配置なども、偶然にも最近訪れた寄居・正龍寺の様と似ています。目的の藤田信吉の墓は、斜面にある一般墓所のエリア内ではなく、本堂裏手の昼間でも薄暗い鬱蒼とした杉林の奥にひっそりと建っていました。

 境内の数か所に、「西方藩主墓所→」という案内表示はあるのですが、初めて訪ねた私には場所がよくわからなかったため、墓参りに来ていた数組の壇家の人たちに場所を尋ねてみたものの、誰も藤田信吉の墓のことを知りません。寄居・正龍寺での藤田康邦と北条氏邦の場合とは大違いです。

 信吉の墓石は、古い五輪塔(古代インドで宇宙の元素と考えられていた空、風、火、水、地の五つの異形石で構成され、宇宙全体を表わす石塔)ですが、一面苔に覆われ、天辺の空輪が欠け落ちてしまっています。この点も、寄居・正龍寺に眠る父・康邦や義兄・氏邦の墓石の保存状態とだいぶ差があり、藤田信吉の存在が世の中から忘れ去られているようで何とも寂しい限りです。

 墓石の脇には、小さな案内板が建っているのですが、苔と汚れで4行目以降の内容が判読不明のため、近くにあった木の枝でこそぎ落し、何とか読めるようになりました(文尾参照↓)。それにしても、ここ数か月に渡って、信吉の墓を訪れる人も、説明文を読もうとする人もいなかったのでしょうか?

 実は、「管窺武鑑」にも書かれているように、大坂の陣の後、失意の藤田信吉が没した地は、ここ西方ではなく、療養先の信州木曽の奈良井宿と伝えられています。子のなかった信吉の西方藩は嗣子断絶により廃藩となってしまいましたが、いったい誰がこの地に墓を建てて弔ったのでしょうか。

 また、信吉の死因についても、病死とも自殺とも伝わっており、謎に包まれています。信吉の最後については、もう少し取材を重ね調べてみる必要がありそうです。

 最後に、「管窺武鑑」によれば、藤田信吉の正式な俗名・法名は次の通りです。

[俗名]
藤田能登守従四位下平信吉

[法名]
休昌院一叟源心居士


(続く)


東北自動車道ガード下から実相寺正面を望む

実相寺・本堂
(裏手の杉林の中に藤田信吉の墓所があります)

斜面にある実相寺の一般墓所
(奥左手に見えるのが本堂)

藤田信吉の墓は本堂裏手の
鬱蒼とした杉林の中にあります

藤田信吉の墓(中央の五輪塔)
西方藩主 藤田能登守重信(信吉)公 墓所

案内板 藤田能登守重信(信吉)公は、会津の上杉景勝の功臣であった。豊臣秀吉の没後、豊家五大老の一人の上杉景勝は、徳川家康と対抗して戦いを起こそうとしていた。
 重信公は景勝を諌めたが、他の重臣に討たれそうになったので、京都大徳寺に入り剃髪し蟄居した。
 家康は、文禄元年征明の役の時に、重信公によって急場を救われたことに報いようと仕官を勧める。
 家康は会津討伐のため、慶長五年七月二十四日に下野国小山に着陣する。そしてその日に、予期どうりの石田三成挙兵の報せを受け、良く二十五日に有名な小山軍議を開くのである。
 重信公は、上杉景勝の急乱を諌めようとしての努力の功績大なりとして、外様ながら早くから徳川氏と近い関係にあったということで、譜代大名の多かったこの時期の下野国に割り込む形で、新知一万五千石(うち妻化粧田二千石)の大名に封じられ、慶長八年から元和ニ年(1603年〜1616年)の十四年間、西方藩主として治世したのである。その間にも数々の合戦で家康から馬衣三十等を賜っている。
 しかし、元和元年大坂の陣(1615年)に榊原康勝が若年のためにその軍指揮の失敗を咎められてしまう。-(判読不明)- 信濃に配流の恥辱をそそぐことも叶わず自刃したという。享年五十五歳(諸説あり)元和二年七月十四日 法名一叟源心居士。
 五輪塔、火輪にやや反りがあり、四隅を斜線で切る。墓全体縦長の感じで、室町末期の五輪塔の名残を留めており、近世期の建立と思われる。

出典「大日本人名事典(講談社)
西方町教育委員会
墓石脇の案内板

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