戦国武将・武者人形の戦国堂
埼玉県寄居町は歴史の魅力に富んだ町で、北条氏や藤田氏に関わる多くの史跡があり、中でもその中心・鉢形城址には私自身何度も足を運んでいます。鉢形城については、別の機会に詳しく触れることとし、今回は初めて藤田氏の菩提寺・正龍寺を訪れました。

2011年1月16日
「歴史に埋もれてしまった悲運の武将 藤田信吉の足跡3 寄居・正龍寺編」

 曹洞宗の古刹「正龍寺」は北武蔵の豪族・藤田氏の菩提寺であり、一族の本拠地であった寄居市内にあります(埼玉県大里郡寄居町大字藤田101-1)。

 「高根山正龍寺禅濫觴記」によれば、このあたり一帯は一面萱野原で付近の大きな池に龍が住み住民を恐れさせていたところ、西からやってきた禅宗の名僧・乾翁瑞元が法力で龍を鎮め住民は平和な生活を取り戻した、と書かれています。この乾翁瑞元和尚が、池を埋めこの地に開いたのが正龍寺(開山当初は青龍寺)で、藤田信吉の父・康邦は、池を埋める作業を手伝い、寺院建立の資材を提供し協力した、と伝わっています。この乾翁瑞元和尚の名声を慕い、多くの学僧が集い、人々の信仰も集まり集落が開かれ、それが現在の寄居町になったとのことです。

 武蔵の国は、江戸時代に五街道の一つ「中山道」が整備されて以来、中山道が国の背骨(ほぼ現在のJR高崎線のライン)をなし、現代にいたるまで人・物の流れの中心となっていて、残念ながら、その中心ラインから外れてしまった寄居町に往年の繁栄の姿はありませんが、中山道ができるまでは、鎌倉街道や秩父往還道の通る交通の要衝として栄え、軍事・経済面だけでなく文化面でも北武蔵の中心であったようです。

 このように、藤田氏の本拠地であった寄居は、当時の関東における交通・経済・文化の一中心地であり、関東制覇を目論む北条氏だけでなく、上杉氏、武田氏をも巻き込んだ争乱の地となったのも頷けます。
 
 さて、件の正龍寺はそんな歴史を感じさせないくらい閑静でのどかな佇まいです。小山の斜面を切り拓いて広がる墓所地の最上部にひときわ目立つ朱柱の立派な廟堂があり、中に藤田信吉の父・康邦夫婦と義兄・氏邦夫婦の墓が保存されています。お家乗っ取り、暗殺と様々な暗い経緯(いきさつ)のあった義理の親子でしたが、「人は死んだら皆仏」の如く、両者の墓石が一つ屋根の下で仲良く並んで建っているのが何とも印象的な光景でした。

(続く)

正龍寺正面の山門

正龍寺境内にある案内板

斜面にある正龍寺の墓所

廟堂前から寄居の町を望む

廟堂

廟堂前の案内板

北条氏邦と正室(大福御前)の墓

藤田康邦と正室(西福御前)の墓

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