戦国武将・武者人形の戦国堂
連休を利用して、藤田信吉の生まれ故郷・埼玉県寄居町に行ってきました。

2011年1月10日
「歴史に埋もれてしまった悲運の武将 藤田信吉の足跡2 寄居・用土城編」

 藤田信吉は、永禄元年(1559年)に北武蔵の豪族・藤田康邦(または重利)の次男として誕生しています(この誕生年と父・康邦の没年については諸説あり、信吉は康邦の子ではなくもともとの一族であった用土氏の生まれであったの異説もあります)。

 藤田氏は関東管領・上杉氏に仕える重臣の家柄でしたが、関東で勢力を広げる小田原北条氏の攻勢に耐えかね軍門に下り、藤田康邦は、北条氏康の四男・氏邦(長男早世により実質的三男、幼名・乙千代)を養子(長女・大福御前の婿)として迎え入れざるを得なくなり、氏邦に家督を譲り、代々の居城であった天神山城を退去、自らは用土新左衛門と改称し用土の地に隠居しています。

 この用土城は康邦の隠居城として築かれたもので、農地の広がるなだらかな丘陵地帯にあり、小高い丘の上の見通しのきく眺望はすばらしいものの、とても戦国時代の城とは思えない変化に乏しい平坦な斜面にあります。おそらく服従を余儀なくされた主家・北条氏に対して何ら異心のないことを示すために、合戦のために作った城というよりは、隠居場としての館のようなものだったと推察されます。残念ながら、城跡といえるような遺構はまったく残っておらず、唯一石碑が城跡であることを物語っているのみです。石碑の前の敷地に「寄居町農業ふれあいセンター」がありますが、目印となるこの城郭風の建物がなければうっかり見落とすところでした(用土駅からの途中、案内板のようなものはまったくありません)。

 氏邦に家督を譲り、廃嫡した長男・重連と幼い次男・信吉を連れ用土城に隠居した康邦でしたが、ほどなく永禄三年(1560年)に亡くなっています。この死について、「管窺武鑑」では「頓死す」と記されており何か陰謀の影を窺わせる思わせぶりな表現です。さらに正龍寺所蔵資料「藤田氏譜略」では、「-(略)-然るに氏邦狼子の野心を逞して養父康邦以下藤田の一族を家第に享宴して毒酒をもてこれを毒殺す」とはっきり記されています。「故老の傳る所によるに…」とあるように伝承記録のため、真実であったかどうかは疑問の余地がありますが、いずれにせよ広くそう噂されるくらい不審な点の多い突然死であったことが窺えます。
 
 この康邦の逝去時に長男・重連は19歳、次男・信吉はわずか3歳であったと管窺武鑑には記されています。重連はすでに当主である義兄・氏邦に仕える青年武将であり、信吉も後に仕えることになるわけですが、生き馬の目を抜く戦国時代とはいえ、何とも複雑で壮絶な家庭環境ではないでしょうか。姉の婿で家を乗っ取った新当主、同時に親の敵でもある義兄・氏邦に兄弟はどんな気持ちで仕えたのでしょうか。その兄弟の心情を思うと興味は尽きません。

 信吉が幼少期を過ごした用土の地は、そんな藤田家内部のドロドロとした複雑で暗い事情を感じさせないくらいのどかで風光明美な田園地帯です。多感な青年期にあった兄・重連の複雑な心境と苦悩とは違い、おそらく、物心つかぬ幼い信吉には真相の詳細が伝えられず、家の中に北条氏の影と父の死をタブー視する奇妙な雰囲気があることに違和感を覚えながらも、名家の御曹司として不自由なく育ち、用土での少年時代を満喫していたのではないでしょうか。

(続く)

用土城跡地に建つ城郭風建物
寄居町農業ふれあいセンター
石碑
用土城のあったことを示す公園の石碑

用土城跡地から北西(藤岡方面)を望む

用土城跡地から北東(赤城山・日光方面)を望む

用土城跡地から東南(鉢形・花園方面)を望む

店主の部屋へ戻るHOME